2014/06
理系女子の支援者たち君川 治


【女性科学者・技術者シリーズ 完】



長谷川 泰 
「長谷川泰と済生学舎」唐沢信安著:日本医事新報社より転載



長井 長義
東京渋谷区の日本薬学会長井記念館にて撮影



成瀬 仁蔵
日本女子大学の成瀬記念講堂にて撮影

















鈴木梅太郎
静岡県御前崎市の地頭方小学校にて撮影
 このシリーズで取上げた女性科学者たちの多くは、未だ女性が教育を受ける機会が少なかった時代に自ら学び、勉学の道を切り拓いた先覚者たちが多い。今回は環境が整わない中で女子教育を支援した人たちについて調べてみた。
 長谷川泰(1842-1912)は済生学舎医学校を明治9年(1876)に開校した。男子の学校で野口英世もこの医学校で学んで医術開業試験の後期試験に合格した。この済生学舎に女医を目指して高橋瑞子が入学を求めて3日3晩を粘り抜き、長谷川泰校長が他の教授連を説得して明治17年(1884)に女子学生第1号として入学を許可された。その後、女医志願者の多くが済生学舎に入学して学び、明治34年までの18年間に59名の女医を輩出した。
 明治25年に卒業した吉岡弥生もその一人で、27番目の女医合格者である。岡山出身の福井繁子は明治27年に卒業し、明治38年にドイツのマールブルク大学に留学して医学博士となった。明治32年卒の宇良田唯もマールブルク大学で眼科学を学び、学位を取得して帰国した。
 長谷川泰は長岡藩医の息子で、西洋医学を学ぶべく佐倉順天堂に入門して佐藤尚中の指導を受け、佐藤尚中の紹介で江戸に出て西洋医学所の教授となった。明治維新後、西洋医学所は大学東校、第一大学区医学校、東京医学校を経て東京大学医学部となる。長谷川泰は大学東校教授となり、東京医学校では相良知庵校長を補佐した。その後、長与専斉、後藤新平の後を受けて内務省衛生局長になった。
 明治34年以降済生学舎は女子学生を認めなくなるが、その理由は長谷川泰が済生学舎を専門学校令に準拠した学校に昇格させようとしたためであった。しかし、長谷川泰など蘭学系医学者と文部省・東大医学部赤門派の対立は激しく、済生学舎は廃校に追い込まれてしまう。
 ここで立ち上がったのが吉岡弥生で、開業医をしながら病院内に女医学校を開設して済生学舎で学ぶ女子学生を受け入れた。幾多の試練を経ながらも立派に発展を続け、「東京女子医科大学」はいまや医師を目指す女性の憧れの大学である。
 日本女子大学校を設立した成瀬仁蔵は生涯を女子教育に捧げた教育者である。この大学の化学教授に兼務教授として招聘された東大医学部教授長井長義も女子教育に力を注いだ人である。明治3年に政府第1回留学生に選ばれた。ドイツに留学してベルリン大学に学び、留学期間は13年におよび、ドイツ女性と結婚した。長井は日本女子大学校でも自立した女性を育成しようと励みすぎ、東京大学の学生達から不満が出るほどだったという。長井は「女は男の片腕でなければなりません。男だけが進歩して、女が進歩しなきゃ社会は片輪だね。男に負けないで大いにやりなさい」と女子学生たちを励ましたそうだ。長井は東京女高師の化学科講師も担当しており、理学博士黒田チカ、農学博士丹下ウメ、薬学博士鈴木ひでるなどが育っている。
 東大農学部教授で理化学研究所の主任研究員であった鈴木梅太郎も女子教育者として知られている。鈴木梅太郎研究室には、日本女子大学校教授丹下ウメがビタミンの研究をして農学博士となり、女高師出身の辻村みちよが緑茶の研究で女性初の農学博士となった。他にも日本女子大学校卒の道喜美代がビタミンB6の研究で農学博士となった。
 真島利行(1874-1962)は東京帝国大学理科大学を卒業後ドイツとスイスに留学し、帰国後直ぐに東北帝国大学教授となった。研究分野はウルシやトリモチなど日本の伝統的な工芸で扱われる物質の化学分析を行い、ウルシオールの分子式を明らかにした。東北帝国大学が女子教育に門戸を開放した時、入学した丹下ウメと黒田チカの指導教授となり、黒田は理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の研究で博士論文を書いている。
 医師の養成とともに重要なのが看護婦(師)の養成で、明治17年に有志共立東京病院(東京慈恵会医科大学付属病院の前身)の看護婦養成所、明治19年に同志社病院京都看護婦学校、明治21年に帝国大学医科大学看護法練習科、明治23年に日赤看護婦養成所などが設立された。
 新島譲(1843-1890)はアメリカへ密航し神学校を卒業して帰国するが、その間に日本は明治維新となり、森有礼駐米公使より留学生として認められ、岩倉具視視察団の通訳としてヨーロッパを巡回した。1875年に同志社英学校を開設、1877年に同志社女学校を開設、1886年に看護婦学校を開設した。彼は当初医学校設立を目指したが必要な資金が得られず、同志社病院長はジョン・ベリー、京都看護学校長は新島譲であった。看護婦学校は就学期間2年間、30〜40歳の身体壮健な女性で、文字が書け、観察力に秀で、聖書を読んで理解できる者としている、授業料は無料であった。
 看護婦学校の指導者はL.リチャーズ女史で、彼女はボストンの婦人子供病院看護婦学校を卒業後、英国に渡りナイチンゲールのもと、セント・トーマスス病院で研修を受けた一流の看護婦指導者であった。
 東京慈恵会医科大学の前身成医会講習所を設立した高木兼寛(1849-1920)も、イギリスに留学してセント・トーマス病院医学校で5年間学んだ医師で、セント・トーマス病院を手本として病院や医学校、看護婦学校を設立した。
 女性の自立職業としては、産婆から始まり、女学校教師、看護婦、医師、教育者、研究者へと拡がっていくが、これらを支える教育者達がいたことを忘れることは出来ない。 (完)


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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